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教育長の部屋(2016年5月)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年5月10日更新

平成28年5月「教育長の部屋」

 

「日常」の幸せ

 

4月14日に熊本・大分で起きた大地震からやがて1ヵ月を迎えようとしています。まずもって、今回の地震に被災されたすべての方々、そして今もなお避難生活を余儀なくされている方々に対しまして、お悔やみとお見舞いを申し上げます。

今回の地震、震度7は2011年の東日本大震災以来で、九州では初めてと聞きます。約400年前に別府湾にあった瓜生島が消えたと言い伝えられる大地震と同じラインで起きているということから、今後もっと拡大すれば伊方原発にも影響が及ぶことになるとも言われています。最悪のシナリオですが、誰にも予測できないだけに不気味です。

14日以降も度々余震が続き、ついに17日には、大分県でも震度7の大きな地震が起きました。さらに20日の午後、私は出張で大分市のオアシスタワー5階にいたのですが、会議の途中、突然グラグラッときたので天井を見上げると、天井のシャンデリアがユラユラしていました。後で震度4と聞いたのですが、その時はシャンデリアや天井が落ちてくるのではないかという恐怖を感じたものです。被害の大きかった熊本や竹田、別府の人たちは、これからも地震が起きるたびにその恐怖に怯えなければならないのです。

これまで私たちは、「日常的なこと」とか「普通のこと」というのは、やゝもすると「退屈」で「おもしろくない」こと、「当たり前のこと」として感じてきました。水や電気、シャツやズボン、鉛筆やノートなどは当たり前にあるものだし、子どもたちの中には,時には学校なんてなければいいと思う子もいるでしょう。こういった日常的な「もの」や日常的な「こと」が、ある日突然に無くなった時の困りを、私たちは想像することはできても、実際に経験していません。

ある歌の一節に、「幸せは つくるものではなく 感じるものだ」というフレーズがあります。誰しもが幸せになりたいと思って、例えば何かを買ったり、相手に何かを求めたり、他人と比べて何か多くのものを持ちたがったりするものですが、幸せというものは、実は今生きている日常の中に転がっていて、それを幸せなことだと思うか、思わないかである、という意味だと私は解釈しています。

つまり、前述した「日常的なもの・こと」を「幸せ」だと感じることを、私たちはつい忘れてしまうということを、こういう災害を目の当たりにすると反省させられます。温かいご飯を食べるという幸せ、飲む水があるという幸せ、風呂に入るという幸せ、花壇に咲いている花を見て「きれいだなあ。」と思う幸せ、学校に行けるという幸せ、働くという幸せ・・・。つい忘れてしまう「日常の幸せ」を、この際、もう一度感じる感性を取り戻したいと思ったこの1ヵ月でした。

こいのぼり


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