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教育長の部屋(2017年8月)

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年8月24日更新

「貧乏草」と呼ばれて

 7月8日から12月10日まで、国東市歴史体験学習館において「暮らしのなかの七島藺」展が開催されている。まだの方は是非足を運んでいただいて、国東の七島藺の歴史を学んでいただけるとありがたい。

 さて、私自身の七島藺の思い出を書くことにする。

 経験された方はご存知のように、七島藺からタタミ表に仕上げるまでの作業は多種多様で、きつく、またできあがったタタミ表もそんなに高価で売れるわけでもなかったので、「貧乏草」とも呼ばれていた。そして小学生の私たちも、一人前の労働力として手伝いをさせられた。七島藺の1把(直径30センチぐらいに束ねたもの)を「わく」と親から5円がもらえた。「わく」というのは、細い針金を張った器具を使って、藺草を半分に割く作業である。単純極まりない作業で、子どもにとっては退屈な作業だったが、ラジオから流れてくる落語や浪曲を聞くともなしに聞きながら5円ほしさにひたすら「わいた」ことを覚えている。

 その「わいた」七島藺を、次の朝、乾燥させるために近くの砂浜に運んだ。ここまではいいのだが、にわか雨が来そうだという時は、何をしていても浜に飛んで行かなければならなかった。真夏の砂浜はこれ以上ないくらいに熱く熱せられていて、歩くのもままならなかった。飛び跳ねながら七島藺を取り込んだものである。暑い夏を迎えるたびに、その光景と足裏の熱さを思い出す。

 次の工程のタタミを機械で織るのはおとなの仕事であり、両親が夜遅くまでガタンガタンと音をさせてタタミを織っていた。

 こうしてやっと手に入れたお金で、家族の生活費や子どもたちの学費等が捻出されていたことは確かで、かつての農家は米作りだけではやっていけなかった。もちろんこれはわが家だけではなく、どこの家庭もギリギリの生活だった。したがって、七島藺は「貧乏草」どころか「貧乏を救った草」でもあったと、今思う。

musitori

 この他にも、子どもたちもその気さえあれば少しの小遣い稼ぎができた。中学生になると友だちといっしょに「テングサ」を採りに磯に潜った。それを買ってくれる人がいて、子どもにしてはいい小遣い稼ぎになった。

 また、両親といっしょに、川に自生している「葦」を刈り取って売る仕事も手伝っていた。

 働くことでしかお金は入らないということを、当時の子どもたもは体験的にたたき込まれた。そう考えると、貧しかった時代は多くのことを子どもたちに教えてくれたように思う。

 現在の子どもたちが、テレビの前でゲームに興じたり「ポケモンGo」でウロウロしたりしているようすをテレビなどで見るにつけ、現代社会が子どもたちに教えているものは何だろう、と考えてしまう。

 さて国東市では現在、「くにさき七島藺振興会」や「七島藺工房ななつむぎ」などが中心になって七島藺の復活に努力している。若い人たちが七島藺に目を向け、「貧乏草」ではなく十分に生活ができる産業として発展していくことを、心から祈っている。

 

 


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