本文
安国寺地区の文化財
安国寺 |
国指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
史跡 |
* |
国東町安国寺 |
国東市 |
平成4年4月3日 |
|
02 |
国重文 |
美術工芸 |
国東町安国寺 |
安国寺 |
平成24年9月6日 |
|
安国寺 |
県指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 | 有形 | 建造物 | 向畑角塔婆 | 国東町安国寺 | 国東市 | 昭和49年3月19日 |
02 |
有形 |
美術工芸 |
国東町安国寺 |
安国寺 |
平成6年3月25日 |
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03 |
有形 |
美術工芸 |
国東町安国寺 |
国東市 |
平成20年7月18日 |
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04 | 有形 | 美術工芸 | 木造如来坐像 | 国東町安国寺 | 国東市 | 平成27年2月24日 |
安国寺 |
市指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
史跡 |
* |
国東町安国寺 |
国東市 |
昭和38年1月27日 |
|
02 |
有民 |
* |
国東町安国寺 |
安国寺 |
昭和38年1月27日 |
|
03 |
有形 |
建造物 |
国東町安国寺 |
定林院 |
昭和46年3月31日 |
安国寺集落遺跡
国東町の中央を流れる田深川右岸の低湿地に位置する弥生時代終末から古墳時代初頭の低湿地集落跡である。昭和24年から27年にかけて発掘調査がおこなわれ、土器は東九州の弥生時代を代表する標識土器「安国寺式土器」と命名されている。また、炭化米を出土した遺跡として「登呂遺跡」に対して「西の登呂」と呼ばれ脚光をあびた。昭和60年から63年遺構確認調査をおこない高床建物部材等をはじめ多くの木製品を出土している。平成4年4月に国史跡となり、平成8年から平成12年の5ヵ年をかけて遺跡整備をおこなった。
木造足利尊氏坐像
尊氏の坐像のほか尊氏の分骨墓塔(石造)、地蔵寺の本尊延命地蔵尊、尊氏その他の遺品なども坐像とともに共に京都山科地蔵寺から移されて安国寺にある。
向畑角塔婆
角閃安山岩
東西南面に墨書銘あり、四面板碑と称すべき形態のものである。各面上部に1字づつ金剛界四仏の種子が彫られている。南北朝末か室町初期の造立と思われる。
(総高 145cm)
安国寺木造地蔵菩薩立像
この木彫仏は、京都山科地蔵寺の本尊としてあったものである。明治11年廃寺となり、伝足利尊氏坐像とともに安国寺に移管された。桧材の寄木造りで彫眼・彩色。総高142.3cmを測る。年代は鎌倉末~室町初期のものである。
飯塚遺跡出土品 木簡及び墨書土器(124点)
木簡52点、斎串・呪符14点 計66点
飯塚遺跡は、2間×2間総柱建物5棟ほか計14棟の掘立柱建物群と遺物を包蔵する泥湿地からなる。
遺跡からの遺物は、須恵器・土師器・墨書土器・刻書土器・内黒土器・貿易陶磁器・緑釉椀・大型土錘等の土器類、布目瓦、石帯、曲物・桶・皿・椀・糸巻・櫛・木錘・横槌・下駄などの木製品、種子・木の葉・獣骨など多種多様な遺物が泥湿地より発見され、出土した須恵器や土師器から8世紀後半から9世紀のものであることがわかった。
木簡は、記載内容により(1)田地の耕作者と人数とその内訳に関わるもの(2)稲の収納や出納に関わるもの(3)手工業に関わるもの(4)信仰・宗教に関わるもの(5)歴名の木簡(6)その他に分けられ、平成20年に保存処理を終え再度木簡釈読をおこない「倉札」に承和二年(835)の年号が確認された。
仰・宗教(5)暦名などの木簡
左の写真
木簡
承 和二と見える。
木簡と呪符
(右)木簡
殿子七人
以六月四日作人廿十六人
少十九人
(左)呪符
飯塚城跡
田原泰広を始祖とする四代田原貞広が観応2年(1351)正月29日、軍功により国東郷を賜わる。
その頃より築城、約230年間の居城といわれている。田深川左岸、宇多野狭隘部を擁している。現在国東小学校校地。
菩提寺定林院に城主一族の古院がある。
円墳状の丘陵で安国寺絵図に詳しい。
石風呂
僧の沐浴に使用したもの。組み立て石風呂と異なり風格よろしく、底部に彫刻あり。
応永年間(1393〜1427)より使用したものと考えられる。
横 165cm、縦 105cm、深さ 55cm
石造宝塔
定林院墓地にあり、総高160cmの古型の整った宝塔印塔。田原11代田原親宏の墓と伝えられる。