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吉広地区の文化財

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年11月13日更新

kunikenshi

M10吉広11

国指定

通しno

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

MA10-01

無民

吉弘楽

武蔵町吉広

吉弘楽保存会

平成8年12月20日

M10吉広11

県指定

通しno

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月

MB10-01

有形

建造物

石造宝塔

武蔵町吉広

西光寺

昭和32年3月26日

M10吉広11

市指定

通しno

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

MC10-01

史跡

吉弘氏七代の墓

武蔵町吉広

個人

昭和46年9月6日

MC10-02

有民

吉弘楽芸能具(五個)

武蔵町吉広

吉弘楽保存会

昭和46年9月6日

MC10-03

有形

建造物

国東塔

武蔵町吉広

塔ヶ迫組

昭和47年9月6日

MC10-04

有形

美術工芸

吉弘統幸画像(鎧姿)

武蔵町吉広

個人

昭和63年5月24日

MC10-05

有形

美術工芸

吉弘統幸画像(大紋御佩姿)

武蔵町吉広

個人

昭和63年5月24日

MC10-06

有 形

建造物

楽庭八幡社仁王形石燈籠

武蔵町吉広

楽庭八幡社

平成1年5月24日

MC10-07

有形

美術工芸

釈迦涅槃図・降誕図

武蔵町吉広

西光寺

平成13年7月13日

MC10-08

有形

美術工芸

木造阿弥陀如来坐像

武蔵町吉広

西光寺

平成13年7月13日

m10ichi664

MA1001 吉弘楽

 

 南北朝の頃𠮷広村に入封した𠮷広正堅楽定八幡神社の神前に楽を奉納してより凡そ200年間𠮷弘氏の厚い保護を受けたが、八代氏直居域を都甲荘屋山に移すに至り、漸次衰微した。
元禄初年古広村にあっては数年の長きにり農作物の虫害が甚だしく、その惨状は時の藩主松平公の上聞に達し、遂に五穀豊穣虫祈祷の為𠮷広楽取立の御沙汰があり、庄屋高原氏は村役人と計り吉弘氏ゆかりの都甲荘に行き𠮷弘の伝習を受け再び吉広村でも楽打ちが行われるようになった。
現在は7月第4日曜日、楽庭八幡神社で行われる。楽打ちは総て49人で行われ、その構成は本頭音頭1人、鉦2人、笛3人、念悌申2人、端楽15人、中頭音頭1入、 鉦2人、末頭音頭1人、鉦2人、笛3入、念佛申2人、端楽15人の計49人である。
この内、本頭音頭には庄屋自ら当り、他は各々家柄格式に応じて世襲していたが現在では保存会が中心となっている。

MB1001 石造宝塔

 

 本塔基礎四重の内、第1重と第2重は後世継ぎ足したもの。即ち本体は第3重より上であり、これより総高258cmである。
最上重の四面には格狭間が二個ずつ刻まれ、さらにこの格狭間には次の通り18行にわたり銘文が陰刻されている。
銘文は普通塔身に剖まれるが基礎に刻まれているのは珍らしい。塔身は鉢形をなし、四面には地蔵像が肉彫されている。笠は照屋根で相輪はずい分大きく路盤の火焔宝珠はその一部を欠損している。この塔は地蔵塔とも呼ばれ、製作年代は銘分より至徳4年(1387)9月24日である。造立目的は現世安隠後世善所のためで、 石材は角閃安山岩。

MC1001 吉弘氏七代の墓

 

 吉弘氏の祖正堅が悟庵禅師を招いて菩提寺亀徳山永泰寺を開山した。ここに吉広氏累代の位牌が安置され、吉弘氏七代の墓もある。
墓塔は七基の無縫塔と宝塔よりなり初代正堅より七代親信に至るまでの君主及び夫人のものである。
八代氏直は中国地方の諸将に対抗するため、都甲荘屋山に居城を移した。従って吉弘氏七代までの基は永泰寺にある。 

MC1002 吉弘楽芸能具(五個)

 

 一、 太鼓(下口という)3個
元禄13年𠮷広村に𠮷広楽が復興の際、杵築藩主松平日向守重栄公より伴領した締め太鼓の内三個の両側而には朱で左3ツ巴が画かれている。
尚太鼓は側と胴とに分雛され胴内には
「元禄十三年城主松平日向守犠より拝領小原手永後藤弥助、庄屋高原徳左衛門」と墨書してある。
二、 銃個
「安永六丁酉六月吉日京大佛住西村上総大□宗春
作豊後国武蔵郷吉弘楽□六丁之内」と銘がある。

MC1003 国東塔 

 

 六地蔵信仰のため江戸時代に組たてられたものである。石材は角閃安山岩。総高228cmである。基礎は4重で、その上に高さ5cm程度の複弁の反花があり、塔身は六角形で、その各面には、合掌して立つ地蔵像が陽刻されている。
笠は照屋根で相輪は高さ69cm。露盤に格狭間が各1個あり、その上に、請花、九輪、火焔宝珠と続く。
以上の如くこの地蔵塔は国東塔としては時代的にやや下るが、珍しいものである。

MC1004 吉弘銃幸画像(鎧姿) 

 

 吉弘銃幸は吉弘氏11世にあたり、喜兵衛と称し、大友四大名の1人であった。この画像は石垣原合戦に出陣の直前、南立石の庄屋古屋彦助の屋敷の本陣にて床机に懸かる鎧姿の統幸に譜代の家臣室理清左衛門が朱柄の槍を捧げている場面である。
この槍は朝鮮出兵の折り豊臣秀吉に従った吉弘銃幸の軍功により賜った鎗である。
この画像は高原一柳の手によるものであり、勇将銃幸の面影を知るにたる貴重なものである。 

MC1005 吉弘統幸画像(大紋御佩姿)

 

 吉弘統幸公は名を嘉兵衛と称し、吉弘正堅10世の孫にあたり、吉弘城主で大友4大名の1人であった。
図柄は冠に大紋御佩を着けた彩色の座像であり、高原一柳の筆といわれている。
製作年代は一柳翁が死亡した寛政2年(1800)以前のものと思われ、武士道の権化とのいうべく潔く主君大友に殉じた武将の権化というべく武将の面影を物語る貴重な画像である。 

MC1006 楽庭八幡社仁王形石燈籠 

 

 楽庭八幡社正面鳥居前に一対の石灯籠があるが、これは仁王が灯籠を持った形をしており珍しいものである。
顔の表情は見る者を威圧する厳めくしさではなく丸顔の童子の様に見え、なごやかな親しさがある。大きさは
◎阿形(向かって右)総高210cm、像高84cm
◎うん形(向かって左) 総高210cm、像高82.5cm
であり、製作年代は江戸時代と推定される。阿形(向かって右)の灯籠火袋の背面には「初秋建之」の銘が刻まれている。

MC1007 釈迦涅槃図・降誕図

 

紙本着色、掛幅装(両方)
江戸時代中期(両方)
涅槃図・銘文(箱墨書) 釈迦降誕図・落款(一柳61歳書)
高原一柳・宝暦12年6月29日没、高原竹窓・天保7年2月27日没

 
 
 
涅槃図   縦 141.5cm 横 101.4cm
釈迦降誕図 縦 116.5cm 横 102cm
高原一柳( 釈迦降誕図)・ 高原竹窓(釈迦涅槃図)

MC1008 木造阿弥陀如来坐像 

 桧材1本、彫眼、彩色、頭体1本、内こなし、膝前横一材、右肘、左袖口、両手首別木ひき付
平安後期(12世紀)
伝説によれば、岡の巴田氏の祖が信州善光寺より奉載してこの地に来て現巴田定氏裏の大石上に安置奉納していたものを、古渓和尚が西光寺再興の際に本尊仏としたといわれている。
(像高 72.3cm)
 

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