ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織で探す > 文化財課 > 吉広地区の文化財

本文

吉広地区の文化財

ページID:0041159 印刷ページ表示 更新日:2023年6月1日更新

kunikenshi

吉広

国指定

NO.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

01

無民

吉弘楽

武蔵町吉広

吉弘楽保存会

平成8年12月20日

吉広

県指定

NO.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月

01

有形

建造物

石造宝塔

武蔵町吉広

西光寺

昭和32年3月26日

吉広

市指定

NO.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

01

史跡

吉弘氏七代の墓

武蔵町吉広

個人

昭和46年9月6日

02

有民

吉弘楽芸能具(五個)

武蔵町吉広

吉弘楽保存会

昭和46年9月6日

03

有形

建造物

国東塔

武蔵町吉広

塔ヶ迫組

昭和47年9月6日

04

有形

美術工芸

吉弘統幸画像(鎧姿)

武蔵町吉広

個人

昭和63年5月24日

05

有形

美術工芸

吉弘統幸画像(大紋御佩姿)

武蔵町吉広

個人

昭和63年5月24日

06

有 形

建造物

楽庭八幡社仁王形石燈籠

武蔵町吉広

楽庭八幡社

平成1年5月24日

07

有形

美術工芸

釈迦涅槃図・降誕図

武蔵町吉広

西光寺

平成13年7月13日

08

有形

美術工芸

木造阿弥陀如来坐像

武蔵町吉広

西光寺

平成13年7月13日

市内文化財インデックス

 

 吉弘楽

 

 吉弘楽は、当日まず神社拝殿に全員が組ごとに整列し「神納」を演じた後に、列を改めて組ごとに境内に入場し、笛は別に正面にそろい、これに向かい合って右に本頭、中頭は中央、左に末頭の各組が位置につく。各演目の間に短い休みを入れて区切り順次演じていくが、演じている間、音頭や端楽などは口のなかでショウガ(唱歌)を唱えながら、向かい合ったり、飛び違ったりしながら太鼓を打つ。このショウガは各組の各役とも、ほとんど同じであるが、それに合わせて行う動作は各組ごとに違っており、隊形や所作が複雑に展開する。
 この吉弘楽の由来として、地域では大友氏の分家である吉弘氏が、南北朝のころに当地の領主となって戦勝や五穀豊穣の祈願のために始めたものが、江戸時代初期に吉弘氏が衰えるとともに途絶え、それを元禄期に虫害除けとして再興して今に至っているとする。現在もドロ(太鼓)の胴の内部に「元禄」以下の墨書を見ることができ、江戸時代からの伝承をうかがわせる。また楽が終わると、それぞれの旗の先についた御幣を虫除け守護の礼として各戸ごとに持ち帰り水田に立てたという。

 石造宝塔

 

 本塔基礎四重の内、第一重と第二重は後世継ぎ足したもの。即ち本体は第三重より上であり、これより総高258cmである。
最上重の四面には格狭間が二個ずつ刻まれ、さらにこの格狭間には次の通り18行にわたり銘文が陰刻されている。
銘文は普通塔身に刻まれるが基礎に刻まれているのは珍しい。塔身は鉢形をなし、四面には地蔵像が肉彫されている。笠は照屋根で相輪はずい分大きく路盤の火焔宝珠はその一部を欠損している。この塔は地蔵塔とも呼ばれ、製作年代は銘文より至徳4年(1387)9月24日である。造立目的は現世安隠後世善所のためで、 石材は角閃安山岩。

 吉弘氏七代の墓

 

 吉弘氏の祖正堅が悟庵禅師を招いて菩提寺亀徳山永泰寺を開山した。ここに吉弘氏累代の位牌が安置され、吉弘氏七代の墓もある。
墓塔は七基の無縫塔と宝塔よりなり初代正堅より七代親信に至るまでの君主及び夫人のものである。
八代氏直は中国地方の諸将に対抗するため、都甲荘屋山に居城を移した。従って吉弘氏七代までの墓は永泰寺にある。 

 吉弘楽芸能具(五個)

 

 一、 太鼓(ドロという)3個
元禄13年𠮷広村に𠮷弘楽が復興の際、杵築藩主松平日向守重栄公より拝領した締め太鼓の内三個の両側面には朱で左3ツ巴が描かれている。
尚太鼓は側と胴とに分雛され胴内には
「元禄十三年城主松平日向守様より拝領小原手永後藤弥助、庄屋高原徳左衛門」と墨書してある。
二、 鉦2個
「安永六丁酉六月吉日京大佛住西村上総大□宗春
作豊後国武蔵郷吉弘楽□六丁之内」と銘がある。

 国東塔 

 

 六地蔵信仰のため江戸時代に建てられたものである。石材は角閃安山岩。総高228cmである。基礎は四重で、その上に高さ5cm程度の複弁の反花があり、塔身は六角形で、その各面には、合掌して立つ地蔵像が陽刻されている。
笠は照屋根で相輪は高さ69cm。露盤に格狭間が各1個あり、その上に、請花、九輪、火焔宝珠と続く。
以上の如くこの地蔵塔は国東塔としては時代的にやや下るが、珍しいものである。

 吉弘統幸画像(鎧姿) 

 

 吉弘統幸は吉弘氏11世にあたり、喜兵衛と称し、大友四大名の1人であった。この画像は石垣原合戦に出陣の直前、南立石の庄屋古屋彦助の屋敷の本陣にて床机に懸かる鎧姿の統幸に譜代の家臣室理清左衛門が朱柄の槍を捧げている場面である。
この槍は朝鮮出兵の折り豊臣秀吉に従った吉弘統幸の軍功により賜った槍である。
この画像は高原一柳の手によるものであり、勇将統幸の面影を知るにたる貴重なものである。 

 吉弘統幸画像(大紋御佩姿)

 

 吉弘統幸公は名を嘉兵衛と称し、吉弘正堅10世の孫にあたり、吉弘城主で大友4大名の1人であった。
図柄は冠に大紋御佩を着けた彩色の座像であり、高原一柳の筆といわれている。
製作年代は一柳翁が死亡した寛政2年(1800)以前のものと思われ、武士道の権化とでもいうべく潔く主君大友に殉じた武将の面影を物語る貴重な画像である。 

 楽庭八幡社仁王形石燈籠 

 

 楽庭八幡社正面鳥居前に一対の石灯籠があるが、これは仁王が灯籠を持った形をしており珍しいものである。
顔の表情は見る者を威圧する厳めしさではなく丸顔の童子の様に見え、なごやかな親しさがある。大きさは
◎阿形(向かって右)総高210cm、像高84cm
◎うん形(向かって左) 総高210cm、像高82.5cm
であり、製作年代は江戸時代と推定される。阿形(向かって右)の灯籠火袋の背面には「初秋建之」の銘が刻まれている。

 釈迦涅槃図・降誕図

 

紙本着色、掛幅装(両方)
江戸時代中期(両方)
涅槃図・銘文(箱墨書) 釈迦降誕図・落款(一柳61歳書)
高原一柳・宝暦12年6月29日没、高原竹窓・天保7年2月27日没

 
 
 
涅槃図   縦 141.5cm 横 101.4cm
釈迦降誕図 縦 116.5cm 横 102cm
高原一柳( 釈迦降誕図)・ 高原竹窓(釈迦涅槃図)

 木造阿弥陀如来坐像 

 桧材1本、彫眼、彩色、頭体1本、内こなし、膝前横一材、右肘、左袖口、両手首別木ひき付
平安後期(12世紀)
伝説によれば、岡の巴田氏の祖が信州善光寺より奉載してこの地に来て現巴田定氏裏の大石上に安置奉納していたものを、古渓和尚が西光寺再興の際に本尊仏としたといわれている。
(像高 72.3cm)

市内文化財インデックス

地区トップ