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教育長の部屋(2017年6月)

印刷ページ表示 更新日:2017年6月12日更新

「新しいスタート」にあたって

先日、梅雨入り宣言が出た。雨の日は読書に限るとばかりに、買いだめしておいた本を読むことにした。
その本とは、93歳になる佐藤愛子さんが書いた本で、「90歳。何がめでたい」という、ベストセラーも間近の本である。佐藤愛子さんといえば、「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞している作家である。
読む前は、どういう理由でこんなタイトルにしたのかわからなかった。いつか読みたいと思ってはいたが、考えてみると私の父、母もすでに90歳を超していることから、「何がめでたい」と否定されて読むのも何となく腑に落ちなくて、今日まで延ばし延ばしにしてきた。

最終章にこんな文が出てくる。

「ああ、長生きするということは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。終始、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止まらない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳ミソも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている。
『まったく、しつこいねェ』思わず呟くが、これは誰に言っているのか、自分にか?神さまにか?わからない。
ついに観念する時が来たのか。かくなる上は、さからわず怒らず嘆かず、なりゆきに任せるしかないようで。
「ものいわぬ 婆ァとなりて 春暮るる」


この本のオビに、「怒りの㊎言に大絶賛の声止まず」と書いてある。歳をとって身体的自由が利かなくなってきたことに対して「めでたくはない」ということもさることながら、どうやら、「めでたく暮らすことができない」世の中や人間の変化に対して言いたいことがたくさんあるという意味も含めているのだろうと、納得した。そう言えば最近は、私たち凡人でも感じるのだが、腹の立つこと、おかしなこと、情けなくなることがたくさん起こっているものなあ。

ところで、「いつまで生きるか」、「どんな死に方がいいか」ということが、私と友人との最近の話題である。その多くが、「人の世話にならずに自分で生活できていて、ある日ポックリ逝く」というのが共通の願いである。ただ、そんなにうまくいかないというのも、共通の認識であり、こればかりは運命にしたがうしかない。私たちの世代にとっては、今後残されているのは、せいぜい20年であり、そんなに遠くない話である。

そう考えると、「いつまで生きるか」よりも「運命の日まで、何をして、どう生きるか」の方が大切である。そして、その運命の日がいつかがわからないことから、今日、明日と、日々をどう生きるかが大事ということになる。

もちろん世の中には、90歳を過ぎてもかくしゃくとして生きている方も多くいらっしゃるわけで、そのひとりのある先輩は、その秘訣を「読書と服装と囲碁」と言っている。読書や囲碁は知的健康を養うということはわかる。では「服装」というのはなぜかと聞くと、きちんとした服装は人から見られているという緊張感を持つことができるからだと言う。「襟を正す」ということばがあるが、「冠の紐を整え、襟をきちんと直し、正しく座り直す」ことは、長寿の秘訣でもあるらしい。要は子育ての基本と同じで、おとなも基本的生活習慣の確立が必要ということだろうか。

こういうふうにまとめると、佐藤愛子さんはきっと、「そういう常識を押し付けるのが私たち高齢者を生きにくくしているのよ!」と怒るだろう。「言いたいことを言って、したいことをして、ガハガハガハと笑って生きていけばいいのよ!」と言うに違いない。

tuyukaeru