本文
伊美地区の文化財
伊美 |
県指定 |
|||||
---|---|---|---|---|---|---|
No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
有形 |
建造物 |
国見町伊美 |
伊美別宮社 |
昭和33年3月25日 |
|
02 |
無民 |
* |
国見町伊美 |
伊美別宮社里薬師 |
昭和48年3月20日 |
|
03 |
選択無民 |
* |
国見町伊美 |
伊美別宮社 |
昭和48年3月20日 |
|
04 |
選択無民 |
* |
国見町伊美 |
伊美別宮社 |
昭和56年3月31日 |
|
伊美 |
市指定 |
|||||
No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
有形 |
建造物 |
国見町伊美 |
慈雲寺 |
昭和39年2月27日 |
|
02 |
史跡 |
* |
国見町伊美 |
国東市 |
平成4年3月31日 |
|
03 |
無民 |
* |
国見町伊美 |
国見歌舞伎保存会 |
平成20年7月18日 |
|
04 |
有形 |
建造物 |
国見町伊美 |
別宮社 |
平成23年3月30日 |
石造宝塔
神宮寺境内にあって、明治初年取り壊されていたものを昭和8年10月に現在の位置に復活した。基礎三重は後補。石材は角閃石安山岩で、銘には
「敬白
奉造立塔婆一基奉安置仏舎利一粒奉法納
如法経三部右菩提如願奉宝三年
商口朔日口右塔口口中冬下旬写
一乗経王口口口廟一部安宝殿一部
入海中極月口日口口口口令若干
知慈悲口口口口口口口口之時経三
乃至良日浪口之日口口口口口
合口之人口詣三会得脱之口口口口口
口口口口口口敬日
正応三年康寅十二月一日
□□□□僧浄慶
とある。
国東半島最大のもので、国東塔では2番目に古い。(高さ481センチ)
別宮社の神楽
国東市国見町伊美
別宮社里楽師
流鏑馬神事の前日14日、別宮社の宵宮祭が行われる。中庭で練楽が奉納され「伊美別宮社里楽師」たちによる神楽が始まる。
別宮社の神事には岩戸神楽24番、夜叉神楽12番、3番神楽1番と無言の舞1番があり、また祝島のみで舞う八重書垣と梓弓の2番がある。神楽歌は概ね古今集風のものが多く、神懸かり歌なども古今集の歌を取り入れている。
また、1番神楽の出立ちの唱詠は和漢朗詠集によるもので、この神舞の成立年代にかかわりを持っている。
別宮社神舞行事
祝島渡御
奉納神楽
山口県の祝島と伊美とは別宮社を通じて古代から深い繋がりを持っていた。
仁和2年(886年)山城国石清水八幡宮の分霊を勧請の時、桐畑盛重、小深田盛勝が供奉しての帰路、風待ちのため祝島に立ち寄つた。この時祝島には三戸の家があったが、島の人は神を祀ることや農耕の道を知らず、病弱な人ばかりであった。宮司はこの島に荒神と大歳神を祀らせ、麦の種を渡して農耕の技を教えた。その後、祝島は人家も増え、人々は健康に暮らし、次第に繁栄するようになった。これを機会に別宮社から四年ごとに新幣を奉持して海上を渡御し大祭が執り行われることになり、この時奉納される神楽が「神舞」と呼ばれるようになつた。
神舞神事とは、一口で言えば神舞を奉納する祭りであり、古代の恩に感謝し、別宮社の御神霊にお供物をもてなし、神舞を奏してお慰めする神事である。また、祝島への御神幸には、御神霊と側近奉仕の宮司・禰宜と別宮社里楽師は欠かせない。
別宮社やぶさめ
伊美別宮社の流鏑馬は、平安の昔、この地に鎮座された時、競馬であったことが文献に残されている。鎌倉時代武家社会となるとそれが馬上で弓矢を射る流鏑馬の形に変わってきた。豊後に鎌倉武士(大友氏)が入り日田の大蔵氏が北浦辺の伊美郷に安堵して別宮社に流鏑馬を奉納したのが始まりではないだろうか。文献によれば、宝永2年(1705年)には流鏑馬神事が恒例になっていることがわかる。
行事は9月1日より始まり、矢矧祭などを経て毎年10月15日に実施される。
三つの的に矢を射かけ、異なった所作を六回行い、回りの観衆の拍手に競って馬は走り、それに乗る射手は鹿皮の袖をまとい、烏帽子姿の派手な姿には魅了される。
慈雲寺国東塔
慈雲寺の裏にある国東塔(高さ277.5センチ)
伊美崎遺跡
国東市国見町伊美権現崎にある石棺。
国見歌舞伎
200年前、江戸中期に杵築藩にあった「播磨屋座」が国東半島一円を巡回興行
大正前期に蔵本貫四郎が「寿座」を結成
昭和30年代 下伊美青年団に継承
昭和50年 大分県が「ふるさと民俗芸能顕彰事業に指定」
平成4年 国見町が「民俗芸能文化振興団体」に指定
平成5年 国見町田舎歌舞伎愛好会を結成
平成6年 大分県が「大分県伝統芸能伝承事業」に指定
平成20年 国見田舎歌舞伎保存会を設立
平成21年 国東市が「無形民俗文化財」に指定
平成21年 国見歌舞伎保存会に改名
写真は御所桜 堀川夜討 弁慶上使の段
伊美別宮社石橋
江戸時代末の架け橋と推定され、橋の前後の取り付け道路の石積みは切石の乱積みで、橋と同時期に施工されたと思われる。橋に付属している親柱は六角形で、擬宝珠のある例は国東半島でも半島西部北部だけの独特な形である。