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掛樋地区の文化財
掛樋 |
市指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
有形 |
建造物 |
安岐町掛樋 |
掛樋小野地区共有 |
昭和56年3月25日 |
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02 |
有形 |
建造物 |
安岐町掛樋 |
岩屋堂 |
昭和59年3月27日 |
お堂様一石五輪塔
掛樋小野、通称お堂様の跡、生活改善センタ(区民館)の前庭に、多数の石塔にまじって建つ完形素朴な五輪塔。南北朝〜室町初期とする説があるものの、600年の歳月はすべてを忘却の彼方へ消し去って、可憐な仏塔はなにひとつ話ろうとはしない。
この隣りにあるやや小柄な高さ(81センチ)の五輪塔は、国東塔の残部であろう。
時代の特色のあらわれている秀作。
岩屋堂板碑
国東半島史に『延文5、7月15日 掛通岩屋堂に於いて 大工妙空西蓮 小工 宇佐 清光板碑を建つ』とあるが、掛通の古老達はもと西岸寺(現関大神社社境内)にあったものを明治初年現地に移したという。
塔身総高155センチ、幅49ー55センチ、厚さ15ー18センチ。
種子 キリーク(阿弥陀)
(墨書)大工 妙空 西蓮
延文5年 庚子 7月15日
(墨書)小工 宇佐 清光
延文5年(1360)は北朝の年号である。
時に南朝の正平15年。その前々年の延文3年には、懐良毅王が率いる南軍は豊後国府(大分市)を攻略し、宇佐大宮司を降伏せしめ、両豊を制圧した破竹の勢いで太宰府を攻め落とした。これに対する北朝方は、同年足利尊氏が死に、高崎城を九州唯一の拠点として十余年間苦戦を強いられる。この激動変転のさなかに刻まれたのが岩屋堂板碑の年号である。