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岐部地区の文化財

ページID:0041058 印刷ページ表示 更新日:2023年6月1日更新

kenshi

岐部

県指定

N0.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

01

有形

美術工芸

木造地蔵菩薩立像(胎蔵寺)

国見町岐部

胎蔵寺

昭和44年3月22日

02

有形

美術工芸

木造大日如来坐像(胎蔵寺)

国見町岐部

胎蔵寺

昭和44年3月22日

03

有形

美術工芸

岐部文書

国見町岐部

個人

昭和44年3月22日

04

有形

美術工芸

岐部氏鰐口

国見町岐部

個人

昭和49年3月19日

05

有形

美術工芸

石造地蔵菩薩立像及び比丘尼立像

国見町岐部

松林寺

平成5年3月26日

岐部

市指定

No.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

01

有形

美術工芸

東叡山通行手形

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

02

有形

建造物

岐部城山国東塔1

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

03

有形

建造物

岐部城山国東塔2

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

04

有形

建造物

岐部城山国東塔3

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

05

有形

建造物

岐部城山国東塔4

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

06

有形

建造物

天満社七重塔

国見町岐部

上岐部区

昭和39年2月27日

07

有形

美術工芸

長刀

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

08

有形

美術工芸

鈎水竿

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

09

有形

美術工芸

僧光千画像

国見町岐部

個人

昭和39年2月27日

10

有形

建造物

松林寺無縫塔

国見町岐部

松林寺

平成4年3月31日

11

有形

建造物

沙川橋

国見町岐部

上岐部区

平成4年3月31日

12

有形

美術工芸

役行者像

国見町岐部

個人

平成4年3月31日

13

有形

建造物

松林寺宝篋印塔

国見町岐部

松林寺

平成8年6月12日

14

有形

建造物

古森家宝篋印塔

国見町岐部

個人

平成8年6月12日

15

無民

岐部子供獅子舞

国見町岐部

岐部子供獅子舞保存会

平成25年3月28日

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木造地蔵菩薩立像(胎蔵寺)

 
浄土宗西山派、天治山胎蔵寺地蔵堂に安置されており寺記には、
「養老四年水無月二十三日」とあり、仁聞作と言われている。
頭・躰を通して檜材による内刳りなしの一木造で、連肉も共木から彫出する。丸顔に目鼻も小づくりの円満相には平安後期の特徴が表われているが、胸腹部から大腿部にいたる量感に富んだ肉取りは古式であり、平安前期一木彫成像の伝統を引くものである。
しかし、腹部や大腿部をおおう衣文を平行同心曲線のみで表す点、かなりの形式化が進んでおり、12世紀になってからの制作と見られる。
(像高 78.7センチ)

木造大日如来座像(胎蔵寺)

 
天治山胎蔵寺地蔵堂に地蔵菩薩立像と共に安置されており、像底に
「延享5年(1748年)」の墨書修理銘がある。
檜材を用いた割り矧ぎによる洗練された作風を示している。
全体に細身で量感不足のきらいはあるが、半円形の眉に切れ長の目、小じんまりと引結んだ口元など、目鼻立ちも整い、特に両膝をおおう浅く軽やかに整理された衣文には、平安最末期の特徴が顕著である。
(像高 46.5センチ)

岐部文書

 
国東半島の岐部浦を拠点とした領主、岐部氏に伝来した文書。戦国時代の大友氏と国東町小領主たちの関係を伝える貴重な史料である。
特に、岐部氏はしばしば、鉄の原材料や刀を祝儀の際、大友氏に献上しており、国東の生産を考える上で興味ある史料である。
また、この辺りは、海上交通の要衝であるため、水甲車や舟に関する史料も多い。
文書は成巻きされており、全部で80通である。

岐部氏鰐口

 
室町時代 、応永16年10月に比丘明薫が岐部能登守元泰並に奉納したもの。
銘があり、表には、
「豊後州北浦辺岐部村将軍宮鰐口応永十六年十月四日願主比丘明薫」と、また裏には、「奉施入坂口勝福寺鰐口応永十八年十二月二十六日施主明薫」と記されている。
鰐口は、撞座区・中区・銘帯に分かれる。
撞座区は索文である。一部ヒビがあるが、全体的に整っている。
(直径19センチ)

石造地蔵仏立像及び石造比丘尼立像

 

比正尼像  正徳元年(1381)南朝年号
地蔵像     正徳2年(1382)南朝年号
地蔵は人々の衆生済度を容易にするため、外見は衆生に親しみやすい児童か比丘尼の姿に変える。その典型が松林寺の比丘尼像であろう。
総高 比丘尼像 120センチ石より54センチ 立像
地蔵像  96センチ石より60センチ 立像

東叡山通行手形

 
江戸末期 文政〜嘉永年間
東叡山寛永寺 徳川将軍家の菩提寺(上野公園)
僧光千の使用したもの 光千は寛永寺の権僧正となる

僧 光千
僧 光千は国見町岐部の古森家の出身。文化4年(1807年)13歳の時、東叡山寿昌院光純(朝来村出身) の弟子となって修道研学した。
文政 4年(1821年) 東叡山見明院に転住
文政 10年(1874年) 大阿閣利位
天保12年(1841年) 大僧都となる
嘉永 元年(1848年) 紅葉山別当職となる
〃                             権僧正に任ぜらる
〃                             修禅院転住
など、東叡山で要職を歴任し、嘉永3年(1850年)57歳で病没した。
また、光千は故郷を思う志が厚く、文政7年(1824年)岐部社に神殿の基壇を寄進した。
なお、古森家には東叡山の通行手形の外に、光千の画像、光千の書状などが残されている。

岐部城山国東塔1

 
国東市国見町岐部。
城山国東塔
江戸時代
​岐部城主のものか

岐部城山国東塔2

 
国東市国見町岐部

岐部城山国東塔3

 
国東市国見町岐部
江戸時代

岐部城山国東塔4

 

江戸時代
基地2段目に別の地より移転
前面 アンドレアクルス
後面 波形
城主の墓か 隠れキリシタンのもの(高さ 154センチ)

天満社七重塔

 
国東市国見町岐部
鎌倉時代の多重塔(高さ323センチ)

長刀

 
国東市国見町岐部金迫

鈎水竿 国東市国見町岐部

 
国東市国見町岐部
戦国時代
岐部水軍が使用していたもの

僧光千画像

 
国東市国見町岐部、江戸中期。
僧光千 嘉永元年(1848年)

東叡山寛永寺にて権僧正となる。
文政4年(1821年)より嘉永3年まで東叡山の要職を歴任する。
嘉永3年(1850年)病没。

松林寺無縫塔

 
 国東市国見町岐部(高さ138センチ)

沙川橋

 
上岐部区にある石橋、明治18年(1885年)。
高さ 430センチ、長さ 830センチ、幅 300センチ

役行者像

 
国東市国見町岐部
​行者山

高さ 255センチ、幅 198センチ
2人の行者を従え堂の中に鎮座している。立派である。江戸時代。

文化三寅 三月   庄屋 仲 保右門
            願主   佐与助  孫七
                                伝右門

松林寺宝篋印塔

 
​国東市国見町岐部田中(高さ138センチ)

古森家宝篋印塔

 
国東市国見町岐部(高さ224センチ)

岐部子供獅子舞

 

岐部神社で奉納される子供獅子舞は、大友氏が岐部地区を支配した約600年前から続く伝統行事である。
2頭の鹿が神の化身として鬼の姿で現れ、田畑を荒らす猪を退治して豊作をもたらしたのが由来である。
春と秋の大祭で、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願する。

 

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