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成吉地区の文化財

ページID:0041152 印刷ページ表示 更新日:2023年6月1日更新

kenshi

成吉 県指定
NO. 区分 細区分 名称 所在地 所有者 指定年月日
01 有形 美術工芸 木造釈迦如来坐像 武蔵町成吉 円明寺 令和3年3月2日

成吉

市指定

NO.

区分

細区分

名称

所在地

所有者

指定年月日

01

史跡

後野古墳群(1基)

武蔵町成吉

国東市

昭和46年9月6日

02

史跡

今市城跡

武蔵町成吉

国東市

昭和46年9月6日

03

有形

建造物

宝篋印塔

武蔵町成吉

円明寺

昭和47年9月6日

04

有形

建造物

板碑

武蔵町成吉

個人

昭和47年9月6日

05

有形

美術工芸

十王石室

武蔵町成吉

個人

昭和54年7月1日

06

有形

建造物

五輪塔

武蔵町成吉

円明寺

平成17年2月18日

市内文化財インデックス

 

 後野古墳群(1基)

 

 成吉の後野には、もと3基の古墳が確認されていたが戦後の柑橘園造成によって、今では一基だけとなり、円明寺の裏山を登った屋根の頂上近くに残っている。
しかし、この一基もすでに破壊されて、古墳の形状は残していないが、累々として残る石や盛土から、相当規模の古墳であったことを知ることが出来る。
未調査の古墳で、出土品なども分らないが、周辺には数多くの五輪搭が埋っている。

 今市城跡

 

 今市から成吉にかけての台地が今市城跡である。
東正面に武蔵平野を展望するこの域跡は、東は30mの断崖、陶は武蔵川に臨み西には後野に続く高台を控え、なおその上中央南北に幅五十mの堀を設けて、東城と西域とに分けた戦国時代様式の多廊式要害で、東西380m、南北260mの広大な規模をもつ国東半島最大の城郭であった。
当城は、はじめ吉弘氏第十代鎮信の弟鎮理の居城であったと言われるが、武蔵田原と称したのは田原氏能の四男上野介親盛から親盛に至る8代であった。
城主の中でも、第7代近江守親賢は紹忍と号し、豊前探題として大友氏の隆盛に大きく貢献し、当時西日本随一の名将と祢された。

 宝篋印塔

 

 幅54cm、高さ36cmの基礎の4面には各2個の格狭間を刻み幅31cm、高さ23cmの胎歳界四佛の種子が薬研彫りしてあり、左の銘がある。
正應二□□
□(キリーク)
八月二日
銘文の「正應二」は比鮫的はっきりしているが、それより下のニ字は摩滅が甚だしくて読みがたい。笠は高さ42cmで隅飾突起は多少の傾斜がある。相輪は請花のすぐ上の部分から折れ、火焔宝珠がおかれている。
総高は1m59cmで石材は角閃安山岩を使用し造立年月日は正應2年(1289)8月2日である。

 板碑

 

 個人宅の裏に板碑が五基見られるが、これは中央の一基である。
地上高85cm、幅は正面中央部で37cm、同下部で38cm、厚さ11cmであり、下方はわずかに地中に埋めこまれている。両側面を多少欠損する他は造立当初の姿をよく保っている。頂上を山形に切ってあるほかには別段何の手も加わっていないが、板碑の型式である額の張り出し、2条線、それに園東型の特徴である前方への湾曲は見られない。
表面の上方には金剛界大日如来の種子「バン」(荘厳点付き)を高さ26cm、幅11.5cmの大きさで薬研彫し、墨による着色が且られる。彫りも深く、書体も見事である。その下に次に示す如く銘文が陰刻されている。

永仁3年2月25日

亥時他界畢

これにより、永仁3年(1295)2月25日の午後11時に死んだことがうかがえ、造立目的は墓標である。
石材は角閃安山岩。

 十王石室

 

 十王像を安置するための石室であるが、まさに材木を石に置き換えた立派な建造物でありこの種のものは他にその例を見ない。
高さ178cm、屋根の幅333cm、奥行き110cmで屋根には前面11枚、後面10枚、厚さ7〜8cmの石が使われ、背面の壁も八枚の石よりなり、向かって右側壁の内側には次の如き銘文が刻まれている。
寛政六甲寅春
厚田忠助
れにより寛政6年(1794)に厚田忠助という人物により建てられたことがわかる。内部に安置されている像は11体であり、これは十王と司命、司録の合計12体の内の1体が失われたものと考えられる。又、内部の壁には赤い色が認められ、更に側壁外面上部には赤い線が十本引かれている。建物自体は貴重なものといえる。

 木造釈迦如来坐像

 

 円明寺本尊釈迦如来像は像高61.5cmで桧材の寄木造り、玉眼漆箔彩色をなす。
張りのある面相に鋭い彫法の目鼻立ち、量感に富んだ体部の肉取りなど鎌倉彫剤それも慶語仏師の作風が顕箸である。しかし.写実的ではあるが、衣文表現には形式化が見られ、南北朝期の造立とみられている。
寺伝では当主寸は貞治年間(1362〜1367)に悟庵禅師が開山したものであり、本像の造立年代もこれと一致し、円明寺創建時の本尊である。

 五輪塔

 

 地輪・水輪が低く、火輪は高く、地輪・水輪を足したほどの高さが有り、傾斜も急であり、古い様式を示す。正面幅は側面幅より大きい。石材は角閃安山岩。
(総高 72.5cm)

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