本文
鶴川地区の文化財
鶴川 |
県指定 |
|||||
---|---|---|---|---|---|---|
No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
天然 |
* |
国東町鶴川 |
桜八幡神社 |
昭和17年8月10日 |
|
02 | 有形 | 美術工芸 | 木造僧形八幡神坐像・女神坐像 | 国東町鶴川 | 桜八幡神社 | 令和4年2月25日 |
鶴川 |
市指定 |
|||||
No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
有形 |
建造物 |
国東町鶴川 |
桜八幡神社 |
昭和38年1月27日 |
|
02 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川 |
興導寺 |
昭和38年1月27日 |
|
03 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川→安国寺地区に |
個人 |
昭和38年1月27日 |
|
04 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川→大恩寺地区に |
国東市(歴史体験学習館) |
昭和38年1月27日 |
|
05 |
有形 |
建造物 |
国東町鶴川 |
国東市 |
昭和46年3月31日 |
|
06 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川 |
興導寺 |
昭和46年3月31日 |
|
07 |
史跡 |
* |
国東町鶴川 |
興導寺 |
昭和46年3月31日 |
|
08 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川 |
今在家区 |
昭和55年6月1日 |
|
09 |
有形 |
建造物 |
国東町鶴川 |
国東市 |
昭和55年6月1日 |
|
10 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川 |
今在家区 |
昭和55年6月1日 |
|
11 |
有形 |
美術工芸 |
国東町鶴川 |
国東市 |
昭和55年6月1日 |
|
12 |
史跡 |
* |
国東町鶴川 |
興導寺区 |
昭和55年6月1日 |
|
13 | 有形 | 美術工芸 | 木造二天立像 | 国東町鶴川 | 興道寺 | 平成30年4月27日 |
桜八幡神社社叢
桜八幡神社
神社は後白河天皇時代の創建といわれるが社叢は原始の姿が残存している。
社殿、社務所を囲む裏側の林で、スダシイ群生が主要。ホルトの木、モチ、ヒメユズリハと低木層にアオキ、イズセンリョウ、林床にホソバカナワラビ、ツルコウジ等。瀬戸内海西端部自然林相の典型。
桜八幡神社神門
桜八幡神社
四脚風薬医門、瓦葺左右切妻造り、格天井、二重垂木になっている。神門の中は、前後二室に区切られ、北面して木造神馬1頭ずつ。南面して随神、閽神(かどもりのかみ)、看督(かどのおさ)鎮座。
徳川中期、中御門帝正徳2年(1712)
釈迦如来坐像
鶴川興導寺にあり、本造、檜材、総高103cm。頭部内・体内を内割りし、一肩から膝奥まで材を左右に矧ぐ。面相は、額に大きな白毫を有し、三日月眉、伏めがちな細い玉眼、頭部は、彫り出しの螺髪、柄衣は、通肩で、手は、中品下生の阿弥陀の印であるが、後世、つけかえられたものである。
胎内銘に、
旹明應拾載(1501)2月22日北浦邊乱入営寺佛像経巻神舎佛閣□□滅巳之畢其外在之庭不申及
大檀越藤原朝臣等親述武運長久一家繁昌諸軍安穏處也、
奉造建興導寺講堂繹迦牟尼如来像住持博燈阿閣梨乗慶 慈父 慈母
行年世一歳、
大旦那松平志摩守源朝臣重賢公如意長久之候、
文亀元年 辛酉 (1501)11月15日作者中国美作國河鍋庄藤原秋
貞53歳、
信心願主太郎右衛門 重興座主法橋 代官 同妻 行満 とある。
石器類
縄文期・弥生期の石器。土器。打製石器・古瓦等、368点。
現在は安国寺にある歴史体験学習館に保存展示する。
ワラミノ遺跡出土品
大恩寺地区で出土か
縄文後期晩期の土器片・ノミ・石斧・石匙・扁平石斧・石鏃等が出上した。
縄文時代後期から晩期
国東塔
石造り宝塔
相輪・宝珠・火焔共に完形優秀なり。
鶴川個人宅にあり、総高3m、相輪・宝珠・火焔とも完形、姿は整い、秀作である。塔身に刻銘のあとがあるが判読困難。大恩寺跡から移したものと伝えられる。
木造僧形八幡神坐像・女神坐像
桜八幡神社
桜八幡神社の神像で、木造僧形八幡坐像と木造女神坐像2体(神功皇后・比び大神)の3体である。平安時代の作と伝えられる。
桜八幡宮は後白河天皇の保元2年(1157)川原の桜本宮社の御分室を勧請して創建されたものである。川原の桜本宮社は和気清麻呂の子孫が宇佐八幡宮の御霊璽と御神体として後一条天皇の寛仁3年(1019)に創建したもので宇佐宮系の神社である。
平安時代、8〜9世紀にかけて神仏習合が盛んとなり僧形八幡坐像が御神体として祭られた。
大般若波羅密多経本
国東市国東町鶴川興導寺にある写本。
永禄6年(1563)、桜八幡社において、社僧権大僧都豪叡、大般若経を読請すと、経巻中に沿革の記入がある。明治初年、神仏分離に際し、桜八幡社より移納したものである。写本、600巻。
横穴古墳群
国東市国東町鶴川興導寺
新宮の道路沿いにあり、古墳時代後期のもの。入口から60cmほど削りとられている。
古墳時代後期。
観音堂の阿弥陀像(立像)
美術工芸品
総桧材・前後寄木矧合わせ、蓮華座二重
総高 91cm
寛文4年(1664)伝正寺法難の時、小原村教順寺に移り、宗門改めの時今在家に戻る。(国東町史314ページに記事)
巨石の橋
旧飯塚城外濠(現在水路)に架した一石の石橋。長さ510cm、幅180cm厚さ80cm岸部の一方に割り込み、橋脚部は堅固な角石使用。割石の痕跡、架橋部の石組み等から中世のものと判断される。現況は用水路改修のため、橋脚部・架橋部の石組み等は失われている。
口碑伝承はないが八幡社西側に10個の石を並べて境内に入る凹地をみることができる。
長さ600cm 幅150cm
石造仁王像
国東市国東町鶴川今在家
今在家観音堂にあり。像高、阿形像1.85m 吽形像1.95m。顔は、忿怒相の表情もよく、桜八幡社前にあったものを、明治初年、神仏分離によって移したものである。
古瓦
奈良時代
この瓦は昭和25・26年頃、佐藤琢磨氏が桜本宮の境内で発見したものである。桜本宮社は平安中期の 寛仁3年(1019) 創建であるが、この瓦の製作年代はそれより二~三百年遡る。奈良時代この地に郡の官衙が所在し、その建物の遺物ではないかと推定されている。国東町史には「安養寺廃寺跡」に桜本宮社の境内地が安養寺とあり、伽藍の遺物ではないかと推定される。文献の上では安養寺は確認されていない。
忍冬唐草文軒平瓦 1個
複弁八葉軒丸瓦 1個
古興導寺遺跡
空也京都に六波羅密寺建立後西海道に空也僧団として念仏の道を開いた。上陸地をお上がり崎と呼び、南下して杵築・山香に遊地する。
興導寺。空也廟、地主権現宮、院主坊等十坊の跡、空也池、経塚、お上り崎、空也木彫仏、旧釈迦堂、釈迦仏像等。