本文
横手地区(泉福寺)の文化財
横手・泉福寺 |
国指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
重文 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和25年8月29日 |
|
02 |
重文 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成7年6月15日 |
|
03 |
重文 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成13年11月14日 |
|
横手・泉福寺 |
県指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月日 |
01 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和58年4月12日 |
|
02 | 有形 | 美術工芸 | 国東町横手 | 泉福寺 | 平成26年2月14日 | |
03 | 有形 | 美術工芸 | 木造無著妙融坐像 | 国東町横手 | 泉福寺 | 平成26年2月14日 |
04 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成3年3月30日 |
|
05 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成15年3月31日 |
|
06 |
史跡 |
* |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成16年3月30日 |
|
横手・泉福寺 |
市指定 |
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No. |
区分 |
細区分 |
名称 |
所在地 |
所有者 |
指定年月 |
01 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和38年1月27日 |
|
02 |
史跡 |
* |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和38年1月27日 |
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03 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和55年6月1日 |
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04 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和55年6月1日 |
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05 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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06 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
|
07 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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08 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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09 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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10 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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11 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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12 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
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13 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
|
14 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和57年4月27日 |
|
15 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
昭和60年10月22日 |
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16 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成7年4月13日 |
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17 |
有形 |
美術工芸 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成24年3月28日 |
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18 |
有形 |
建造物 |
国東町横手 |
泉福寺 |
平成24年3月28日 |
泉福寺開山堂附開山無著和尚
国重要文化財 泉福寺開山堂附開山無著和尚墓塔
泉福寺は永和元年(1375)田原氏能の母、無伝仁公の発願で、無著妙融禅師によって開山。開山堂は禅宗の名僧無着妙融の墓とその覆堂である。最初、応永元年(1394)に建立されたが大破したので寛永13年(1636)に古材も用いて縮小再建したのが現在の堂である。正面奥の仏壇下に、開山墓塔を納める。石造無縫塔である。
切妻造りこけら葺妻入、正面三間(4.01m)、側面3間、背後差掛付き(計4.87m)。円柱を木造礎盤上に建て、上下粽付き、頭貫台輪をめぐらし、禅宗様出組斗拱を詰組に配置する。軒は繁垂木二軒、妻は大瓶束二重虹梁、妻壁、側壁とも板壁。垂木をひねって軒反りをつける。内部板床張り。正面中央間桟唐戸外開き。正面奥の仏壇下に開山墓塔を納める。石造無縫塔で基礎・竿・中台などは八角に造る。昭和35年に開山堂を解体修理した時、寛永の墨書銘が発見された。
小規模ながら本格的禅宗様開山堂で珍しい。現在は鉄筋コンクリートの覆屋に入って保護されている。
宋版宏智録
宋朝曹洞宗の代表的禅僧、天童宏智正覚(1091-1157)の語録。道元将来と伝える宋版六巻が大分県泉福寺に蔵せられ、これを改編して九巻としたのが 宝永5年版であり、泉福寺本巻首の欠文と改編本の不備を改め、原型に復元せんとしたのが寛政版である。それらの事情については、『洞水和尚語録』15の 「重校宏智録序」(「曹洞宗全書」語録五)に詳しい。泉福寺所蔵の宋版は天下の孤本である。
泉福寺仏殿附棟札一枚
仏殿は平成10年から関口欣也氏により詳細な調査が行われた。その結果、建物が中世に遡る本格禅宗様仏殿の数少ない遺構であり、九州において唯一の例で、禅宗様建築様式の伝播、普及を考える上でも価値が高いとみなされ、平成13年11月に重要文化財に指定された。
しかし、以前より建物の雨漏れ及び腐朽破損により建物が危険な状態になり、応急措置として覆屋が架けられ、正背面の軒に鉄管でサポートが施されていた状態であったので、今回の解体修理に至った。
事業は平成17年1月に着手したが、解体後斗棋・軸部の破損が甚大であることが判明し、実施に伴い事業費の増額と工期の延長を行い、
総事業費236,977,214円とし37ケ月を要して平成20年1月に完了した。
泉福寺正法眼蔵抄 三十一巻
横手 正法眼蔵抄31冊は道元の弟千経豪が「正法眼蔵」75巻の注釈書として、延慶元年(1308)に刊行したもの。「正法眼蔵」最古の注釈書として貴重である。
寛延四年辛未秋南呂十二日
三河国足助□。賀茂郡梁山主人妙昌禅寺、復古八世見和泉福三百三十九世智外鐡忍
干時 寛延四年辛未年
全部大補 惣裏打ち 共三十一冊之内 当山三百三十九世住務
泉福寺山門
2重層木造瓦葺下層板葺き
慶長10年3月細川越中守忠興の建立
11坪、下層は出組、上層は尾垂木付2手先で上段が横へ伸びる禅宗様の肘木をもち詰組とし、扇垂木2軒の禅宗様形式。
泉福寺厨子
泉福寺の中心堂、禅宗の伽藍配置の典型に従って山門の後方に建つ。3間入母屋造り、単層堂で鉄板葺である。九州ではめずらしい本格的中世仏堂である。大永4年(1624)の建立。厨子は仏殿の奥、須弥壇上に安置。小型の入母屋造りで扇垂木の中央付近は平行に配され古式である。
泉福寺境内
泉福寺は南北朝末の永和元年(1375)、この地の豪族田原氏能が、母無伝仁公尼(後光厳天皇第三皇女)の発願に応えて、曹洞宗の高僧無著妙融禅師を招待して開山された禅の修行道場です。
往時は曹洞宗九州総本山として七堂伽藍を備え、泉福寺僧堂(学校)を卒業して九州中に教えを広げた修行僧の数は、千人を超えるといわれています。
天正9年(1581)キリスト教に改宗した大友義鎮(宗麟)の兵火に遭い開山堂、仏殿、客殿を残して焼失。そのあと25年後の慶長10年(1605)細川忠興の寄進により復興しました。
現在の仏殿は、元禄の棟札によれば大永4年(1524)の建立となっています。
その後元禄5年(1692から7年まで3年かけて根本修理が行われました。
昭和13年(1938)から2年かけて小屋組を組み替え、茅葺から鉄板葺に変更されました。今回、平成17年から19年まで行われた解体修理によって元禄修理時の姿まで復旧整備した。
泉福寺石段
江戸時代の技法「蹴上げの石段」といわれ、 一度壊れたら修理が出来ないと伝えられている。
石塔群
石伝龕6基、無縫塔10基、五輪塔80基、石殿1基、その他倒れているものを加えると100基、
四角形に配列。
舎利塔
泉福寺所蔵で、黄金の舎利塔といわれている。総高57cmの厨子の中に収められている。塔の高さ41.5cm。
小松重盛公遺骨(2粒)
右當寺江令寄進附者也
慶長19年8月□日 細川越中守忠興(1614)と記してある。
泉福源燈録(六巻)
和綴 横23.7センチメートル、縦17cm。
巻一 藤原氏日野流系図
巻二 泉福寺開山忌疏和解
巻三 師傳
巻四 鎮西無著妙融禅師年譜
巻五 諸師傳
巻六 妙徳山法王林泉福禅師草創記
明和2龍集乙酉季冬12日(1765)
現住英雄頑衲 茅梅聞謹記 とある。
各諸堂法語
泉福寺歴代の住職が、開山堂、祖師堂、仏殿等各伽藍堂に参入して唱えた法語を集め記録したもの。法語には上堂(じょうどう)、小参(しょうさん)、詩頌(しじゅ)、遺偈(いげ)等の部分を持ってその寂後門弟たちによって編集出版されるものである。従って法堂に参入して衆僧に説法する言葉だけでなく仏徳をたたえる頌詩、堂塔伽藍の林立した聖域をたたえる漢詩なども含まれ、多種にわたるようである。
・法語とは仏法を説いた正しいことば。
・上堂とは法堂に上がって僧衆相手に定期的に説法すること。
・ 小傘とは上堂を 大傘というのに対して非時の説法をいう。
冊子の表紙に次の詞が記されている。
益葉久昌 陽大韶聖 玉龍常女 大蹊豪徳
金剛般若波羅密経
泉福寺所蔵、中国伝来と伝えられている本版秘本。上下2冊。
奥書に、妙徳山泉福寺従古来所傳般若経也
賓暦三癸酉秋現住玉冽漂識(1753)
とある。
泉福寺開山無著勅諡真空禅師
泉福寺開祖無著禅師の出自、行道の概略を記録したもの。四世の法孫妙三の撰になる。
延宝九辛西菊月吉辰(1681)竣梓。
泉福寺無著禅師聨燈集
永和元年(1375)泉福寺開山以後、寛延年代(1848〜50)ごろまでの開祖無著禅師の法燈を嗣いだ法嗣の系譜を略記したもの。
泉福寺文書(後円融天皇御綸旨ほか12件)
(軸物)(1):後円融天皇御綸旨(永徳元年8月28日)
(2)伝後円融院下賜法衣記銘(明徳四年8月12日)
(3)松井康之禁制(慶長6年4月11日)
(4)加納曲斎・飯川豊前守連署奉書( 慶長6年10月1日)
(軸物)(5) 細川忠興平重盛遺骨奉納状( 慶長19年8月□日)
(6)小笠原氏家老連署書状(寛永2年12月□日)
(軸物)(7) 小笠原壱岐守安堵状(寛永2年12月□日)
(軸物)(8)小笠原忠知安堵状(寛永10年2月15日)
(9)小笠原源左衛門尉等連署禁制(寛永11年卯月□日)
(10)加藤正治等連署禁制(天和3年7月□日)
(11)泉福寺山林四至裁許状(元禄5年6月□日)
(12)泉福寺領畝高目録(元禄9年7月□日)
(13)伝道元禅師直筆
伝後円融天皇御軸物対幅
泉福寺の寺宝としての言い伝えでは後円融天皇の御下賜となっているが箱書きには21年の署名で左記のように記されている。
「伝に言う。 後光厳天皇御下賜ノ品ニテ当山開基無傳仁尼公和尚ヨリ寄附セルモノナリト云」昭和21年 初夏 於泉福寺精舎 総持寺 玄宗書
いずれが正しいのか確かめようがないが後光厳天皇は後円融天皇の父君である(北朝)。
芙蓉道楷禅師袈裟環付
赤銅の文庫(一名花車の文庫)
袈裟を収納してある赤銅の文庫はこの袈裟の損傷を防ぐために後年細川忠興公が寄贈したものであると伝えられている。この赤銅の文庫の前側面に二個の車の車輪の形が浮き彫りされているのでこの文庫を「 一名花車の文庫」と呼称している。
また寺では爾来芙蓉道楷禅師袈裟のことを、別名花車の御法衣と呼称して来ている。
豊後州妙徳山泉福寺住帳
開山無着禅師以来の泉福寺の歴代住職名を記す。開山無著禅師が示寂した明徳四年に明岩昭が2世、就任し、その後は17世蔵山沢までは無著禅師の法嗣十六名が1年交代で輪住している。その後は明治4年の461世大秀賢芳が独住第1世となり昭和21年よりの現住第7世学道賢明までの住職名を明記してある。
本末寺名書上帳
曹洞宗中本寺である泉福寺の末寺68、末寺末、庵宝67、計135について、寺院名・所在地・住職名を記す。
原本が損傷したため明治8年になって書き写したもの。
無著禅師語要
泉福寺開山無著禅師の語録で、次の奥書がある。延享丁卯二月念四日 泉福現住穏牛五院。1747)
石造経王千部供養塔
元文5年(西暦1740年)夏、安居の月、泉福寺現住達玄が禅師となり、大衆(修行僧)43人と壇信徒多少人で連日連夜、国家安泰・存亡利益を祈念して仁王経千巻を眞読(全部読む意)し、上は三宝に供養し奉り、中は四恩に奉じ、下は六道の悉くに供養した。この功徳を廻しもって一切の衆生に施し、存亡共に願いにしたがって等しく成仏せしめんことを誓う。
(泉福寺住職稲井令弘老師解説)
(なお堂の正面右隅が欠落している)
泉福寺伝香炉台
円筒形で直径17cmの頂部から底部にかけて、緩やかな末広がりとなり、底部で急に広がり直径36cmとなる。総55cmの鉄製である。香のたき口は直径10.8cm、深さ2.5cmの円形となっている。製作年代は永正3年(1506年)である。香爈台の側面に銘が彫刻されている。
銘文
妙徳山可中公用 月谷派待真堂存置
永正三卯月 日(1506) 大工正次
泉福寺庚申塔三基
基礎2重、塔身、照屋根の笠、その上に相輪と宝珠を重ねてある。
総高3.54m。
銘文
正面 国泰安民
経王千部供養塔
存亡利益
右側面 干時元文五歳次庚申夏安居月(1740)
真読連衆43人
化縁壇信都多少人
当山現住達玄隻敬白
石工 𠮷用半七
左側面 受持読誦解説書写
上奉三宝中報四恩
下反大道皆同供□
裏面 更銘日
上来功勲廻施衆生
誓存亡所願均成
泉福寺釈迦如来坐像
室町時代初期頃
張りの強い地髪に太い鼻梁の目鼻立ちはやや
卑俗めいた表情をあらわし、癖のある独特な
衣文表現から、室町初期頃の院派系仏師の作
と考えられる。仏殿(国指定重文)の旧本尊と
の伝承がある。
木造無著妙融坐像
像主である無著妙融の没後間もない頃、開山堂の創建に近い時期、14世紀末から15世紀初頭にかけての造立とみられる。痩身の体に頬骨高く遠くを見据える表情には、修行僧の厳しさが表され、像主の高邁な人格を良くとらえている。坐像は、桧材寄木造、玉眼嵌入、彩色像である。現在の彩色は江戸時代の後補で黒漆を塗り重ねる。
像高101・6cm 座高64・8cm
泉福寺昭堂
開山堂と無縫塔は、応永元年(1394)の建物で、仏殿(1524)とともに国指定となっている。
昭堂の背面は開山堂に繋がっており、開山堂の礼拝堂として建立されたものである。
製作年代 明応六年(1497)
構造は、入母屋・妻入、背面は切妻、大虹梁上に火打窓を設け、内部に観音像を安置する。現状は、内部に床を貼り、正面脇間に連子窓、中央間に引戸4枚を入れるが当初は内部土間で、正面柱間装置は背面側に取り付いていた。